(愛知保険医新聞2021年4月5日号)
もし私があの場にいたら、どうしていただろうか。
東京五輪・パラリンピック大会組織委員会会長だった森氏が女性蔑視発言をした。しかしその場では誰もそれを咎めなかったと言う。さらに彼は、「女性役員たちはわきまえておられる」と言った。ジェンダー平等のみならず、LGBTやSOGI(性的指向と性自認)という概念によって性別を超えた平等を推し進めている現代において、なんと時代錯誤的な発言だろう。
腹立たしさと共に私の心にひっかかったのは“わきまえる”という言葉であった。もしあの場にいたら、私も黙認したかもしれない、と思ったからだ。場の雰囲気を悪くする。賛同が得られない。女性は面倒と思われる。会長に目をつけられたら怖い。伝えても変わらない。…様々な気持ちが沸き上がった結果、蔑視された側であるにも関わらず私は何も言わない、つまり“わきまえた”かもしれないのだ。
“わきまえる”を辞書でひくと“物事の道理をよく知っている”とある。しかし今回の件はもっと複雑だ。ロイター通信では、森氏の“わきまえておられる”という言葉を understands their place と訳したという。ここには権力にとって望ましい自分の立場を理解している、つまり“忖度”に近い概念が潜んでいると感じるのだ。しかも、“わきまえる”は、力あるものに抑制され、コントロールされ、“わきまえざるをえない”場合においても、本人にその自覚はなく、あたかも自由意志であるかのような形をとる。さらに、「“わきまえた”よき組織人」という評価のご褒美まで与えられる。実際、森氏は女性役員たちをほめたつもりだっただろう。この図式は、権力による語りの場の支配に他ならない。
この報道で、たくさんの人たちが声をあげた。海外からも批判が噴出した。私は勇気をもらった。オカシイと感じたらオカシイと言っていいんだ、言っても変わらないとあきらめなくていいんだ、と。
あるライターが“差別する権力は周囲の人間を共犯にする権力だ”と言っている。権力に忖度して差別発言を黙認することは、自分が直接差別をしなくとも差別の共犯者にされてしまうということだ。
再度自分に問う。あの場にいたらどうするか。自分の思いを発言しよう。恐れずに。あきらめずに。共犯者にならないために。
私は“わきまえる”を選ばない。