能登地震が示す地震の怖さ

愛知保険医新聞2024年2月25日号掲載

千種区 杉藤 徹志

元日の午後、テレビを見ていて地震に見舞われた。揺れに驚き、思わず食卓の下へ潜り込もうとした。その後のテレビ放送は正月番組が吹き飛び、地震報道一色、どのチャンネルへ回しても同じことだった。さらに翌2日には羽田の飛行機事故、こちらは奇跡的に旅客機の乗客約400人が全員脱出できた。しかし滑走路上で衝突した海上保安庁の飛行機の5名が死亡。こちらは震災地の救援に向けて準備中だったとのこと、とんでもない年明けとなった。

地震は能登半島地震(①)と名付けられ、いまだに関連の報道が、新聞・テレビで続いている(2月15日現在)。死者数は地震の規模の割に少なかったのは、被害地が過疎地だったためだろうが、テレビが繰り返し映し出す、すさまじい光景、崩壊した家々、地盤の隆起、地滑り、道路の亀裂・崩壊等断層地帯であることを示している。断層のずれが地震の原因だったと考えると、よくも断層地帯へ志賀原発を作ったものだと、ぞっとする。幸い大きな被害はなかったようだが、日本列島そのものが大小の断層の上に成り立っていることを改めて思い知らされ、その他の原発の徹底的再検討が必須だと愚考する。

老生がはじめて経験した大地震には、小学一年生の時の三河地震(②)がある。午前3時38分、大きな揺れに飛び起きた老生に母が覆いかぶさって守ってくれた。大きな被害があったようだが、戦時中で被害が敵国に知られないように、ほとんど報道されなかったことを後日知って呆れた。その時老生の家は江戸末期か明治の初めに建てられた、集落でも数少ない藁屋根のボロ家で、よくもつぶれなかったと近所でも評判だったと聞く。祖父が濃尾地震(③)の時も壊れなかったと得意そうに話すのを何度も聞いた。
そんな昔のことはともかく、小生にとって記憶に新しいのは、1995年1月17日の阪神・淡路大震災(④)で、この時はまだ現役で、2日後に救援隊の一員として神戸へ駆けつけ、その惨状に肝をつぶしながら診療にあたった。また後続の救援チームのため診療担当区域の設営にあたった。能登の地震の惨状を目の当たりにする時、神戸の状況を思い出す。今少し若ければ救援隊に加わって活動していたかもしれない。

この地方で近い将来予想される東海地震にいつ襲われるか、また繰り返し日本のどこかで大地震に襲われることは避けようがないことを考えると、残念ながらその対策の貧しさを憂えざるを得ない。

(①)能登半島地震:2024年1月1日 マグニチュード7.6 死者242名安否不明9名
(②)三河地震:1945年1月13日 マグニチュード6.8 死者行方不明1,961名
(③)濃尾地震:1891年10月28日 マグニチード8.0 死者2,306名行方不明1,126名
(④)阪神・淡路大震災:1995年1月17日 マグニチュード7.3 死者行方不明6,437名
参考
関東大震災:1923年9月1日 マグニチュード7.9 死者行方不明14万人以上
東北太平洋沖地震:2011年3月11日 マグニチュード9.0 死者行方不明22,318名

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