2020年7月30日

コロナ禍に学ぶ-経済優先から人優先の社会へ

(愛知保険医新聞2020年7月25日号)

5月下旬に全国一律の緊急事態宣言が解除されたが、東京を中心に新型コロナウイルス陽性判明者が再び増加しており不安な日々だ。
コロナ禍で浮かび上がったのは、日本の医療・介護体制の脆弱さ、引いては社会全体の脆弱さではないか。
欧米の先進諸国が多くの犠牲者を出したのは、これらの国の多くが緊縮財政で医療をはじめ社会保障を削減したことが医療崩壊を招き、犠牲者を増やしたといわれている。日本でも、政府は再度の感染拡大に備えて医療機関に病床確保を求める一方で、地域医療構想によって約20万床の病床削減を狙っていることは大きく矛盾している。
感染拡大に伴い、PCR検査を依頼しても電話が繋がらない、検査を拒否されるという事例が多発した。こうした事態は、保健所削減や地方衛生研究所の体制が弱体化し、公衆衛生が大きく後退していたなかで起こったことだ。
1990年に850カ所あった保健所は二〇二〇年には469カ所となり、職員数も激減した。PCR検査を担う地方衛生研究所一カ所あたりの予算も、2004年の5.8億円から2013年には4億円まで減らされた。全国の保健所職員や保健師の奮闘なくして感染拡大に歯止めはかけられない。政府は保健所体制の強化とPCR検査拡充を第二次補正予算に盛り込むべきであったが計上されなかった。
医療機関においても衛生資材が入手困難となり、マスクやグローブなど繰り返し使用せざるを得ないという多くの声が、協会の緊急会員アンケートにも寄せられた。国や自治体の責任で衛生資材の確保を行い、医療機関など優先順位の高い施設へ提供する体制の整備が急務である。
また、衛生資材の確保を海外からの輸入に頼っていたことも方針転換が必要だ。新たな世界的パンデミックに備え、必要な資材を国内生産化することも政治課題だ。
未知の感染症に備えるには、日頃から医療や介護の現場に余裕がなくてはならないことは国民的に理解されたのではないか。この「余裕」を実現するには、経済効率を最優先して医療・社会保障をはじめとする公的サービスを削減し、自己責任を押しつけてきた新自由主義の社会のあり方を変える必要がある。
「儲からないことはやらない」ではなく、人が生きていくために必要なことこそ価値があるのではないか。

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