2006年2月15日

九条を守る

名古屋大学名誉教授 松井 信夫

名古屋大学名誉教授 松井 信夫 氏  私が中学3年になる頃、大勝利で始まった太平洋戦争は次第に不利となり、昭和18年2月にはガダルカナル島撤退、5月アリューシャン列島のアッツ島での玉砕と次々に敗戦が報ぜられた。国内には働き手の男性は殆ど居らず、気丈な女性が上陸してくる敵兵に立ち向かうべく竹槍の訓練を始めた。同級生の中に航空隊に入隊する者が出て、開業医の家に育って医者になる積りであった私も、軍隊で死ぬことを覚悟した。ただ軍隊ではしごきで死者も出ると言われ、行くのが怖かった。処が海軍兵学校(海兵)では拳で殴るのが最も厳しい制裁とのことで、海兵へ行くことにした。昭和20年4月海兵へ出発する時には母親が名古屋駅まで送ってくれた。駅で母に別れてホームへの階段を昇って行く時には再び会えないかもしれないと思い、涙が止まらず困った。
 海兵では敗戦迄の4カ月少々の間に数百発の鉄拳を貰った。そのうち排尿中に友人と話をして1号生徒(最上級生)に見咎められた時のは腹立たしい。彼は下級生に厳しいことで有名で、私共に互いに相手を殴れと命じ、更に友人の殴り方が弱いといって友人を体が吹っ飛ぶ程の力で殴った。この陰湿な制裁は心に棘として残った。しかし海兵では人生の指針ともなる有益な教訓を色々学び、多くの友人も得て感謝している(それでも軍隊は嫌)。
 8月6日の世界初の原爆は、兵学校の校庭(爆心地から約16kmで閃光も爆風も諸に受け、昼には土砂降りの雨(黒い雨?)に打たれた。8月15日敗戦を知らされ口惜し涙を流した。処が1日、2日と日が経って、戦が終ったこと、帰郷できることが実感されるようになるにつれひとりでに喜びがこみ上げて来た。8月23日帰路広島を見た。街は惨憺たるもので、駅はプラットフォームがあるだけで周囲は一面茶色で緑がなかった。無蓋貨車に乗って東へ動くにつれて緑が増えた。名古屋も焼け野原であったが、知多半島の郷里には以前のたたずまいが変わらずにあった。家に着いた時には母と真っ先に会って喜びを分ち合うことが出来た。母は25年前に亡くなったが、この時の情景は心に焼き付いている。翌年第八高等学校に入学して、子供の頃の夢であった医者への道へ復帰出来た。
 以来、この平和を取り戻した時の喜びを憲法九条が支えてくれてきた。今度は武力を行使しない、軍隊を持たないというこの九条を守るために力を尽くしたい。

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