2008年6月25日

憲法を生活の中に

豊橋市  渡辺 のり子
 最年少の勤労学徒であり、戦後の学制改革の波の中を右往左往した私たちの学年は、教科の中に、新しい日本国憲法を学ぶ機会はありませんでした。むしろ、明治23年10月30日公布の教育勅語は、諳んじています。
 「朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ…」これは各国民学校の奉安殿の中にあり、登下校時に拝礼して通りました。又、勅語奉読の儀式もうやうやしく、空襲でこれを持ち出すことのできなかった校長先生は自決したものです。
2004年(平成16年)「憲法九条・未来をひらく」と、井上ひさし・梅原猛・大江健三郎・奥平康弘・小田実・加藤周一・澤地久枝・鶴見俊輔・三木睦子の9氏により「九条の会」が結成され、各地・各界に平和憲法の九条を支持する人々に参加が促がされました。
 東三河でも、誰言うとなく、戦争は駄目だ、平和を望むと言う人々が集り、2005年3月5日、650人で東三河九条の会が生まれ、更に7つの九条の会ができ、交流を図っております。
 小学校時より教育勅語を只管おぼえ、頭をたれつづけていた私は、何と迂闊にも日本国憲法を知りませんでした。ただ世の中が何となく、太平洋戦争の始まる前のように感ずることがあり、改憲・護憲・加憲などと騒がれている本を読みました。
 豊橋は軍都であり、女学校1年生の秋から豊川海軍工廠へ通学し、軍歌を唄い“歩調取れ、頭右”と海軍さんに敬礼し、軍需産業に従事しておりました。1945年(昭和20年)6月19日、豊橋も空襲をうけ「焼け出され」となり工廠に行くことができなくなりました。この年、8月6日ヒロシマに8月9日ナガサキに新型爆弾が投下されましたが、8月7日には豊川海軍工廠も爆撃され、学友8人が戦死しました。14歳にして生死をわけた体験をした私は、戦争の愚かさを憎みます。又、生き残された後ろめたさも感じつづけておりました。
 50回忌法要に少女たちに手紙を書き「最後の女学生~わたしたちの昭和~」を編纂し、のち母校の後輩で「時をこえて」の感想文集ができました。
 平和憲法九条の大切さを語り伝えることが、二五条で生存権・社会保障的義務を主張することが、普通の人間があたりまえの暮しができることです。

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