2008年11月15日

憲法9条こそわが国平和の旗印

東区  小川 正道
 太平洋戦争中、私は国民学校に通っていたが、戦争が激化するにつれて食料不足が深刻になった。給食では鬼饅頭やさつま芋が主食で、「よもぎ」や「はこべ」の味噌汁を食べさせられた。食料の配給を受け取りにいくと、警戒警報や空襲警報が鳴って、避難しなければならないといった命がけの状況を幾度となく味わった。わが国は多くの都市が空襲を受けて家は焼かれ、多くの人命が失われた。私は岡崎市の田舎に住んでいたが、近くに牛乳処理場の高い煙突があったため軍需工場とまちがえられたらしく、敗戦間近の米軍の空襲によって焼夷弾や焼夷爆弾が雨あられと投下され、目の前で私の家は全焼してしまった。この空襲で近所でも死者や負傷者が何人も出た。
 敗戦の年の8月6日には広島に、9日には長崎に新型爆弾(当時は原爆のことがこのように報道された)が投下され、それぞれの死者は十数万人、7万4千人に達し、負傷者は莫大な数に上る。
 戦争が終わっても、戦後の生活は悲惨なものだった。衣食住すべてが不足した。先ず生きていくためには食の確保が必要であり、今では考えられないようなぼろ服をまとい、荒地を開墾して畠を作り、さつま芋、南瓜、野菜などを作付けした。他の子どもが遊んでいる間も炎天下で草取りをしたり、寒風の中で麦踏みをしたりと、畠仕事に精を出さなくてはならなかった。主食はさつま芋や南瓜がほとんどだったので、子どものときに他の人が一生食べるくらいの量を食べてしまった。そのせいで、今では、さつま芋や南瓜は口にしたくないのである。私と同年代の人には、同じような思いを持つ人が多いようである。戦後は国によって貯金が封鎖されたため預金を下ろせず、困窮に拍車がかかった。この苦い経験から、私は現在も国債を信用できない。
 このように、戦争は人をみじめなどん底に突き落とすものである。私は、縷々述べたような自分の体験から二度と戦争をしてはならないと考えている。1947年に憲法9条が制定され、わが国は戦争を放棄することを誓った。太平洋戦争後も、世界各地でいろいろな正義の名の下にヴェトナム、湾岸地域、イラク、アフガニスタンなどで戦争が行なわれ、人的、物質的に甚大な被害が出ている。
 戦争が終わっても、一家の大黒柱を失った人々、戦傷者、化学兵器による奇形児の多発など多くの後遺症とともに、絶望的な貧困が待ち受けている。拉致被害や密輸を防ぐために、沿岸警備は海に囲まれているわが国にとって必須である。しかし、事あるごとに自衛隊を海外に派遣して憲法9条をなし崩しにしようとする政治家の動きに対しては、厳重に目を光らせて憲法擁護の姿勢を強く示さねばならないと、私は考えている。

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