2009年5月15日

微力でも平和運動推進を

昭和区 能登 正嗣
 父、俊一郎は明治四十二年生れ、存命なら今年で丁度百歳となる。
 名古屋医科大学を昭和九年に卒業。同十二年に動員下令され支那事変に従軍、北支で活動。十七年に召集解除、依願免職するまでの五年間野戦予備病院第二十二班に在籍。その間、見習士官から軍医少尉、中尉と昇級。除隊後、すぐに結婚翌年に私が生を得た。
 以上が父、俊一郎の戦争である。従って私に直接関る戦争というものはない。
 物心がついた時は淡路島に居た。上空を大編隊が西へ向うのを記憶している。又、後で聞いた話では淡路島の診療所に勤めていなければ再召集であの玉砕硫黄島へ行っていたとも聞いた。
 父は元来、無口のほうでただ酒が入ると趣味の話は出たが、中国北支での戦争の話はほとんどしなかった。何日も延々と続く砂嵐の中で何がなんだか分らないとも言っていた。又、博士論文のテーマはたしか「満州チフス」であったがこれがあのおぞましい人体実験と関係があるのかは全く何も言わなかった。知らなかったのか言いたくなかったのかも分らない。
 父が亡くなってからもう三十数年、今となっては中国での戦争に参戦したこと、それに関わるこもごものことを知る由もない。ただ、この戦争で医師として責任を全うすることだけでなく人間として苦悩したこともあったであろうと思う。
 私も、戦争に反対し日本の誇るべき憲法九条を守る立場として、又医師として平和運動を推進して行かねばならない。
 ついこの間、立命館大学の国際平和ミュージアム名誉館長の安斎育郎氏の「平和とは何か」の講演を聞いた。その中で「平和」とは従来の戦争のない状態から今は「暴力」のない状態になったと言われた。この暴力には戦争を含む直接的なもの、そして人の命の輝きを阻んでいる構造的なもの、そして各種の差別意識が導く文化的なものと、この三つを明解に得意のマジックを交えユーモアたっぷりにお話しいただいた。
 安斎氏は最後にこのような平和活動はこれに関する意識のある人達に話しかけ共感を得ることが大切と結んだ。「私達は微力ではあるが無力ではない」との言葉が心に残った。
 今、世界は未曾有の金融危機から発した恐慌の中にある。一方、これを捉えてものの見方を転換する転機とする考え方も出てきている。もちろんその中には世界平和構想もある。
 幸い日本には世界に誇れる憲法九条がある。
 あの米国オバマさんも「世界の平和は米国だけの問題ではない」「武力だけで解決しない」又「核兵器廃絶」を呼びかけている。
 日本の憲法九条があの「モッタイナイ」と同様国際語となって世界中で実行されることを願う。微力であっても努力をしたい。

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