2014年11月28日

怒りを通りこして呆れてしまってはいけないと思う

中京大学スポーツ科学部坂本 龍雄
 さいたま市の「公民館だより」が俳句<梅雨空に「9条守れ」の女性デモ>を掲載拒否した問題が世間を騒がせている。館長いわく、「世論が大きく二つに分かれる問題で、一方の意見だけ載せられない」。作者から助けを求められた、95歳を迎えてますます頭脳明晰な俳人・金子兜太は「とんでもねえ時代だ」と怒っている。私はどうか…呆れた話だと胸糞悪く思っているが、一方で怒りのボルテージが上昇しないことに焦りを感じている。
 小・中学校の社会の授業を思い出してみよう。憲法とは、国民の権利と自由を守るために、国がやってはいけないこと、またはやるべきことについて国民が定めた最高法規である。我が国は、日中戦争とアジア・太平洋戦争において、中国や朝鮮、東南アジア諸国を中心に2000万人をくだらないおびただしい殺戮に関与し、自国民にも戦死兵230万人、民間死者80万人の犠牲を強いた。戦争の犠牲はこれだけではなく、今に続く従軍慰安婦問題や被爆者の苦しみに象徴されるように、残された者にも拭いきれない傷跡を残している。憲法9条は、憲法前文とともに憲法の三大原則のひとつである平和主義を規定しており、戦争の悲劇を二度と起こさないという世界に向けた誓いであり、犠牲者への謝罪と反省であった。したがって、「9条守れ」と声をあげることは、平和を願う世界の人たちに対する日本国民の常識的な責務である。さいたま市の館長が尊重しているのは「戦争する国づくり」を進めるおぞましい勢力である。そして、館長が示した「中立的立場」は公務員であれば許されないはずの憲法破壊の立場といえる。
 さて、私は、物心ついた頃から憲法9条を守りなさいと母から厳しく躾けられた。はらはらしながら聞く母の戦争体験の締めくくりは決まって憲法9条の大切さであり、いつのまにか憲法9条とその精神が自分にとっての神や仏となってしまったような気がする。伊勢で育ったため、皇室や総理大臣の伊勢神宮参拝の一行をよく目にしたが、小学生の頃、常陸宮華子さんの伊勢神宮参拝にあたり、沿道での旗振りに動員されたことがある。帰宅して母にその話をして、天皇の戦争責任や、日の丸や君が代がいかに血にまみれたものであるかを聞かされたのだと思うが、日中の自分の行為を激しく恥じたことを思い出す。二度と同じ過ちはしないという決意は今につながっている。
 平和憲法があるにもかかわらず世界有数の軍事力を保有し、第2次安倍内閣は米国の「核抑止力」をふりかざしながら米軍の最新鋭巨大基地建設、特定秘密保護法公布、集団的自衛権行使容認など、「戦争する国づくり」を着々と進めている。ともすれば、怒りを通りこして呆れ返ってしまいがちだが、蹂躙された憲法9条の叫びに耳を傾け、怒りを持続させながら戦争のない平和な世界の実現に向けて努力したいと思っている。

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