2015年10月14日

戦争を知らない私も話していいと思った

みよし市 伊勢 直樹
 戦争体験のない団塊の世代の者として、戦争について何を語れるか、何か語る資格があるのだろうか、といつも躊躇してしまう。戦争体験者の方々の前では沈黙せざるを得ないし、体験者の親を持つ人の話に対しては、「自分には何もない」と思っていた。
 しかし、最近の安倍首相の口先だけの軽い言動や、「『戦争に行きたくない』は極端な利己的考え」などと広言する武藤衆院議員などの出現をみていると、私なりの立場で戦争について話すのもいいのかもしれないと思うようになった。
 自分の中の戦争のイメージは、学生時代に読んだ大江健三郎氏の「ヒロシマ・ノート」や「沖縄ノート」であり、小田実氏の「ベトナムに平和を 市民連合」であり、石川文洋氏の「戦場のカメラマン」であるが、その中でも特に、アラン・レネ監督によるドキュメンタリー映画「夜と霧」、V・E・フランクル「夜と霧」が印象に強く残っている。
 映画「夜と霧」は戦後、アウシュヴィッツ収容所を訪ねていく記録で、特に死者をブルドーザーで穴に埋めている映像は、あまりのむごたらしさ、おぞましさに、この世のものとは思われない衝撃を受けた。真正面からみるには勇気がいるので、その後ずっと自分の中で封印してしまっていた。
 V・E・フランクルの「夜と霧」は副題に「ドイツ強制収容所の体験記録」とあるように、精神科医である著者が、収容所に入れられ、どのようにして屈辱に耐え、過ごし、どう考えて生き延びたのかが克明に分析され、書かれている。
 また、その解説ではホロコースト(大量虐殺)の実態、つまり、ナチス政権の下で何が起こり、どのようにユダヤ人がアウシュヴィッツに連れ去られ、どのように選別されて、強制労働させられ、ガス室に送られたか、詳細に書かれている。
さらに、写真では丸裸にされ、丸ボーズにされ、同じ服を着せられ、没個性化された人々の、この世のものとは思われない、地獄絵図のような映像に身の毛もよだつ思いがした。
 これが自分の中の戦争の真実であり、イメージであって、これらを生み出す戦争を肯定したり、美化したりする気になる方がおかしいし、さらさら、そんな気は起きない。
 ただ、V・E・フランクルは「夜と霧」の中で、絶望のどん底にいながら、人間への信頼を持ち、希望を持ち続ける人々をも描いている。
 平和を維持し、継続していくには、いかに多くの議論と対話が必要かを考えることは何よりも大切なことだと思う。
 憲法九条の精神は、決して非現実的なものではなくて、世界に向けて堂々と主張し、対話や議論の中心になければならないと考える。

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