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【12.01.15】第26回愛知県開業医医療研究会開催報告

第26回愛知県開業医医療研究会
東日本大震災の経験と地域医療再建の取り組み


 協会地域医療部は、11月13日(日)、「東日本大震災の経験から、今、伝えたいこと」をテーマに第26回愛知県開業医医療研究会を開催し、東日本大震災の経験、災害医療の実際の報告を聞いた。参加は42人。
 報告者は、村岡正朗氏(村岡外科クリニック院長、気仙沼在宅支援プロジェクト本部長)。村岡氏は被災地の気仙沼市で、自らも被災しながら五月三十一日まで避難所及び救護所生活を送り、また仮医院を構え訪問診療を再開し地域医療再建の取り組みを進めている。また他に、愛知医大医療救護班の一員として、南三陸町で医療救護活動を行った杉本郁夫氏(愛知医科大学医学部血管外科准教授)、愛知県歯科医師会の要請を受け、岩手県で医療救護活動を行った木村慎吾氏(木村慎吾歯科クリニック院長・東海市)からも報告を受けた。
 村岡氏の被災地からの報告について概要を紹介する。(文責:編集部)

■医療過疎


 気仙沼の医師数は、人口10万人あたり115.3人であり、全国平均(224.5人)の半数。既に医療過疎にある。高齢化率は28.5%。37軒ある診療所のうち、24軒が全壊、損壊は6軒。現在19軒は再開したが、医療機器などはなく元通りには診療はできていない。高齢化によって10年後に直面する事態が震災によって突如出現した。
 全国からの支援により手厚い医療看護介護体制が確立され、被災地の医療レベルは発災前より引き上がった。被災地に課せられた課題は、引き上がったレベルを被災地の受け皿にあわせて下げつつ、少なくとも震災前よりも高い医療レベルの確保を目指し、徐々に引き継げるような基盤づくりに取り組むことだった。

■避難


 3月11日、午後2時46分、訪問診療から診療所に戻る途中、携帯電話から地震速報が鳴った。揺れは一波目より二波目の方が大きく、その最中に大津波警報が流れた。診療所はグチャグチャ、外来患者に避難を指示し診療所も閉めた。既に車は数珠繋ぎだったので、とりあえず徒歩で10分弱の高台の気仙沼中学校に家族と従業員で避難した。
 高台に着くと、名古屋の妻の実家から携帯が鳴り、無事を伝えると突然電話が途切れた。振り返ると濁流が街をのみ込んでいく。着歴は3時15分だった。
 私が避難することができたのは、海岸からの距離と高台が比較的近くにあったこと。当院から数百メートル離れた海岸に近い診療所では、医師、従業員、患者とも屋上に避難し助かったものの、ヘリコプターで救助されたのは3日後だった。
 津波は海から来るものと思っていたが、川を遡上し背面からの引き波で巻き込まれて亡くなった方も多い。とにかく高台に歩いて逃げる。車での避難はしない。ライフラインが寸断され、車では身動きがとれない。最近でも海底から車が発見されると、その中からシートベルトをしたままの遺体が出てくる。

■救護


 津波到達後からびしょ濡れになった人たちが高台に集まってきた。避難してきた人たちは地元の人ばかり。医者であることは面が割れていたので、何かあるたびに呼ばれた。中学校の体育館が避難所として開放されると、避難者である私の前に救急箱がドンと置かれ、救護所の要請が……、覚悟を決めた。
 手ぶらで避難したため医療アイテムもない、情報もない中、運ばれてくる人の救護にあたることになった。低体温に対しては服を脱がし毛布でくるみ、骨折に対しては段ボールでシーネをつくりガムテープで固定することしかできなかった。重症患者は、何とか車を手配して市立病院に輸送した。
 患者の様子を見ながら夜明けを待った。夜明けとともにびしょ濡れの被災者がさらに集まってきた。津波に流され、暗闇で身動きがとれず、氷点下の夜を乗り切った被災者だ。この一夜が生死の境だった。外傷も多かったが、緊急に手術を必要とする人はほぼいなかった。
 今回の特徴は、水・電気がない中、低体温の人を暖めるためにどうするか、透析患者をどうするか、入院患者への食べ物をどうするかが大きな問題となった。避難所で困ったのは、慢性疾患で定期薬が流された被災者の対応で、何の薬を飲んでいるのか分からなかったため、処方判断に戸惑った。お薬手帳や薬剤情報提供書の大切さを実感した。

■救援物資


 震災2日目の昼から、中学校の保健室で救護所を開設することとなった。保健室の備品を使えるようになってひとまずは安心した。十分な薬はなかったが、知り合いの調剤薬局がOCT薬を、気仙沼の歯科医師会の会長が市内の歯科医院から使えそうな薬を掻き集めて届けてくれた。日頃のつながりに助けられた。救援物資が届くようになったのは3日目からだった。普通に開業しているころよりも十分な救援物資が届いた。
 食事は2日間、殆どなかった。学校に備蓄してあった食料は、生徒子ども達に配られ、避難している大人までは回らなかった。1家族によくておにぎり1個とお茶のペットボトルが1本だった。自衛隊の炊き出しは、3日目から始まった。
 自衛隊は2日目の朝には生存者確認のため被災地に入り、3日目に炊き出し、4日目には医療部隊が救護所テントを開設した。電源車を持参しレントゲンまで撮れる設備もあり、普通の診療所としての機能は十分に整っていた。しかし、自衛隊だけあって高齢者向けの高血圧などの薬が少なかったことは意外だった。
 救援物資はニーズを超えて大量に集まり、無駄になったものが多い。マスコミの力は大きいので、報道により大量に集まった。情報を一元管理して、避難所のニーズに応じて対応できる兵站基地のようなセンターが必要だ。

■医療救護


 DMATは72時間まで、それ以後は医療救護班という。阪神淡路大震災の教訓でつくられたが、津波による死者が大半で、想定していた赤タグの人達は殆どいなかった。
 本格稼働はこの震災が初めてで、当初は統制が取れていなかった。気仙沼の場合、主たる仕事は、市立病院からの患者転送と、100以上できた避難所のうち、ある程度の規模の避難所に入ることだった。避難所に張り付くことは慢性期医療に対応することであり、その切り替えができたチームは活躍した。
 また、医療救護班が集めた医療ニーズは医療者の目を通じた正確な情報。気仙沼の場合、毎日ミーティングを開き、市立病院の先生のコーディネイトのもと、その情報を地域で共有相談し、情報をもとに次の活動の方針を決め、派遣場所の選定などうまく機能できた。このやり方は地域によって違っていたようだが、医療救護班の情報を共有して柔軟に対応できる受入側の心構えも必要だ。
 DMATは震災当日の夜には被災地で活動していた。気仙沼では最多で20チームが入り、4月に15、5月に8まで段階的に減らし、6月30日まで活動し解散した。陸前高田など医療機関も壊滅した地域ではすべて災害医療でやるしかないが、被害を逃れ通常どおり開業する診療所、十分ではないが再開した診療所がある地域なので、災害医療と保険診療が混在した。そのため、その兼ね合いをどうするかが課題になった。地域医療再建のためにも、被災者だからといって災害医療で推し進めていくわけにはいかない。

■在宅支援


 インフラが寸断され、避難所にも来ることができない被災者が結構いることが分かってきた。地震発生時、経管栄養の患者はベッドを起こして休んでいる時間帯で、電気が復旧するまで4日、長いところでは3週間、そのままの状態でいたため、多くの寝たきりの高齢者に褥瘡が発生した。そこで3月末に気仙沼巡回療養支援隊(JRS)を結成し、全国から支援に入っていた行政の保健師の協力も得て、3月26日から全市3回ほどローラーをかけて、地域巡回健康相談を行った。
 JRSは、要支援患者の把握、避難所要介護者の在宅・施設への移行、移行中・後のアフターケア、災害派遣チームの効率的派遣調整、現地スタッフのレスパイトを目的に、地域巡回健康相談、患者への診療・看護・リハビリ、医療・看護・介護体制の強化、避難所の統廃合と集約化を進めた。
 全国からの支援によって引き上がった医療レベルを震災前のレベルに戻してしまうのは、支援を受けた側として、それは申し訳ないと思う。支援に来ていただいた皆さんへの恩返しのためにも、頑張ってできるだけ地元スタッフによる医療レベルを引き上げたところで受け継ぐようにしようと考え、訪問診療は8月まで、保健師の訪問調査活動は9月まで行い、9月26日に解散した。
 全国から海外から医科、歯科、看護師が集まり在宅支援チームをつくった。保健師や行政職員とも連携し長期的継続的な活動を行った。医療が必要な人がいればJRSから必要な支援を行い、そうでなければそのデータは気仙沼市に引き継ぎ保健行政に活かした。4月には3カ月健診が再開できた。
 ボランティアは3、4日の短期間で入るので、全体の流れが把握できていないうえ、個人の想いだけで活動されるとまとまりがつかなくなる。JRSは、ボランティアのコーディネイトも行った。
 新規の在宅患者は、6月には平常時に戻った。しかし、その受け皿が気仙沼にあるかどうか。超急性期ならDMATのように入れ替わり立ち替わり支援に入ってもらっても良いが、慢性期になれば継続する体制で支援してもらわないと地元に根付かない。
 JRSでは気仙沼に残っている医療従事者に講習会も開催した。リハビリチームは1年間継続して支援に入ることになった。リハビリの必要な患者の家族に、その家族ができるようなリハビリの指導を地元から依頼した。気仙沼は医療従事者が少ないので、その地域でできること、まわせること、次につながるようなことを考えた。

■復興・再建


 先日、仮設住宅で芋煮会が開催された。ボランティアが材料から鍋からすべて準備して作って配給した。それでは芋煮会じゃなく炊き出しと同じだ。今はもうそんな時期ではない。仮設住宅で雨漏りや寒いから改善しろという報道がされたり、暖房器具が配られたりした。家を失った被災者は、自力でボロアパートを借りて暮らしている者もいる。被災者の自立に向けての行動を阻害しているのではないかと思うときがある。
 ボランティアや支援の在り方について考え直す時期に来ている。仮設住宅だからではなく、高齢者世帯や震災で職を失って困っている人などに、生活を補う方法や制度を考えるべきだと思う。その方が少なくとも被災者が前を向ける方法になる。
 先日、津波が来なかったところで、地鎮祭をしてようやく基礎工事が始まった。
 先輩から雇ってやるから働かないかと話もあった。でも、津波にあった家を見て非常に落ち込んだ息子に、「お前が帰ってくる場所をつくってやる」と約束した手前、田舎というものを親父がつくってやらないといけないんだと奮起した。家族には感謝している。
 最後に、自衛隊、警察、消防、海上保安庁、米軍の方々には本当にお世話になった。まったく当てにならないのは、いい顔だけする政府与党。前を向こうとしている被災者の心を折る。
 全国のみなさんのご支援に感謝します。

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